花月暦

日本の文化・歳時記研究家の広田千悦子さんが伝える、
季節の行事と植物の楽しみかたのエッセイ。

第二十八話 「春分のこと」

2019.03.24

life

小さな生き物たちが動き出す啓蟄を過ぎると、季節の進みにもリズムがついて急に早くなるように感じます。
もちろん、実際に季節の動きが早くなったり遅くなったりする訳ではありませんから、人それぞれの何かしらの基準があって、早くなったりゆったりと流れたり、季節の過ぎ去る速度が様々に変化するわけです。

その大きな理由の一つは、もちろん太陽でしょう。
日暮れの時間が伸びて昼の時間が長くなり、春分には昼と夜の時間がちょうど同じぐらいの時間になります。

多くの人は夜、眠っていますから、昼夜同じといわれても、数字に示されるようにくっきりとした実感を持つことが難しいのですが、空や大気や窓から差し込む光りに、誰しもが場に明るさを感じるようになります。

文字通り「太い陽」という意味のある星、太陽は、春分になると、真東から登り、真西に沈みます。

たとえ星に興味が無くても、暮らしのエリアの中で太陽の動きや道すじを一度、目でたどってみると、頭や気持の中に、別な回路が開くようなここちよさがあります。
春分は、自分が行動しているエリアの真西や真東が、いったいどの方向になるのかを確かめる、
ちょうどいい機会でもあります。
その星、太陽のある方へと一斉に手をのばしているように見えるのが、この時期の草木花です。

お彼岸をはじめとして、太陽を信仰の対象として祀る考え方は日本各地に見られ、日の出を迎えて、日没を送り、手を合わせる習わしがあったことなどを思い出しながら道を歩きますと、草木花が全身で星の光りを受け取ろうとしている姿を眺めるにつけ、太陽という星からいただく恩恵や、その不思議さについて思いめぐらせる時間になります。

麦の春包み

麦が青々とした姿をみせています。
ほとんど今は忘れ去られてしまいそうなことですが、古い歴史がある日本の麦作には、さまざまな儀礼がありました。
麦に向かって褒める言葉をかけたり、麦のお正月があったり。
新緑が眩しい頃に金色に染まり、麦が秋を迎えるという意味の七十二候「麦秋至るはよく知られていますが、その麦がそろそろ青々とした穂をのばしはじめています。
今回は初穂をお供え物にするために、草花包みにしてみました。

野の花繚乱

むずむずとつぼみが動いている音が聞こえてきそうな気配のある桜の下で、さまざまな野の花が春らしく咲いて優しい色を見せています。
あっという間に過ぎていく、何気ない野の花の華やかさを目にとどめておきたくて、諸喝采、桃色の椿、アオキの花、菜の花、花韮の花をお弁当箱につめてみました。

榊の花

この時季、神事に欠かせない榊が花を咲かせます。
木のそばを通ると、独特の匂いを放っています。
整列して、ずらりと枝に並ぶように小さな小さな白い花を咲かせているのです。
花は目立たず、いつの間にか、落ちてしまうので気づかずに通りすぎてしまうかもしれません。
ただ、独特の匂いがありますから、正体は知らなかったけれど、香りだけは知っているという人も多いかもしれません。

フリージア

もう10年以上前になりますが、山の上で畑をやっていたご年配の方にとってもいい香りのフリージアをいただきました。
鼻腔からすっと喉を通り、身体に染み込むようなインパクトがありながらも、それでいて穏やかな優しい香りの種類のフリージアです。
楚々とした、華やかすぎない花の色味や模様も素敵。この花が咲く度に、今は亡きその方を思い出します。
花と香りは、記憶とともに残り、なんども人生の中で繰り返しよみがえっておだやかな時間を届けてくれます。

第二十九話「四月 清明 穀雨」へ
注目の桜が花開き、そのゆくえをみなで見守り、送り出す季節がやってきます。
旧暦の桃の節供、花祭、鎮花祭など、花にちなむ行事が続いていきます。

広田千悦子

文筆家。日本の文化・歳時記研究家。日本家屋スタジオ「秋谷四季」(神奈川県)などで季節のしつらい教室を行う。ロングセラー『おうちで楽しむ にほんの行事』(技術評論社)、『鳩居堂の歳時記』(主婦の友社)ほか、著書は20冊を超える。

写真=広田行正