花月暦

日本の文化・歳時記研究家の広田千悦子さんが伝える、
季節の行事と植物の楽しみかたのエッセイ。

第八話 「小満のこと」

2018.05.21

life

小満となり、夏へと進む道の途上。
ウグイスの音は、よりいっそう朗らかに響いています。

ところが慣れてしまうと人間、不思議と音をなかなか拾えないようです。
甘い初夏の花々の香りや、深まる緑の気配に麻酔をかけられたように、心躍らせていた春のときめきはすっかり胸の内から消え、遠い過去となってしまいました。
小満の季節の感覚は、曖昧でぼんやりとしているようなところがあります。

では、この時季、五感を呼び覚ますものは何か、と考えてみるなら少しずつ高まってくる湿度だと気づきます。その潤いを帯びた空気感を肌に感じながら、ホタルの灯りを心待ちにする、そんな季節です。

あらゆる闇を照らしながら、趣きのあるところへ。
草木花の甘い香りと一緒に、私達を優しく導いてくれます。

十字架の花

十字架を象るようなドクダミの花が一斉に咲きはじめました。
ちょっと可哀想のようなこの名前が使われはじめたのは江戸時代中期以降。
それ以前の古名は「之布岐」(しぶき)といいました。

生薬名は「十薬」(じゅうやく)。
十の薬効、あるいは十の毒を消す、あるいは重要な薬草であるから、というのが名の由来という説があります。

目に飛び込んでくる純白の4枚の苞(ほう)が、十字架に見えてしまう私にとっては、音の通じるこの「十薬」という名がしっくりときます。
ことばの音がもたらす力は考えている以上にインパクトを刻みます。
「言霊」の力を教えてくれる花でもあります。

十字架というと、キリスト教の象徴ですが、そもそも二本、あるいは数本の線が交差する「十字」のかたちは、キリスト教だけのものではなく、日本はもちろんのこと、世界中で古くからみられるシンボルです。

例えば、互いに交差するという意味のアイヌ、ギリシャでは太陽神アポロンのシンボル、ローマでは星の輝きをあらわすもの、メキシコでは世界の中心、生命の樹木をあらわしました。

太陽、月、水、大地、復活と救済、繁栄、中心、統合などさまざまな意味があり、古代から伝われてきた原始的なかたちといえるでしょう。
ちなみに、鎌倉時代初期から続いた薩摩の名家、島津氏の家紋は十文字紋ですが、フランシスコザビエルがそれを見て驚いた、という記録があるそうです。

さて、十薬の効能ですが、我が家では、虫さされの特効薬として、葉を揉むと出るエキスに随分とお世話になりました。
ただ、特有の臭みが苦手な人は、今まっさかりの花だけを摘んでウオッカに漬け込む方法をおすすめします。エキスが出てしまえば薄茶色になってしまいますが、華やかなガラス瓶を眺めながら、出来上がりまでの時間が楽しい薬になります。

今回は冬と春を越え、元気を取り戻してきた山苔に十薬の花をあしらってみました。

緑深まる季節の中で、映える十字。
純白の苞とハートの葉が、十薬らしく、凛と引き締まるしつらいになりました。

二十四節気の小満は、万物も陽気に満ちて、実りを迎えるものがいっぱいです。
青々とした枇杷の実、まだまだ華奢だけれど柑橘類の実、野薔薇の実はまだ結びはじめでしょうか。

中でも、ひときわ瑞々しいのは椿の実です。
力強い葉とフレッシュな葉の両方に支えられながら、椿の油をたっぷりと蓄えている最中です。

あとひと月もたたないうちに、厳しい夏を越えて行く前の雨期へと進んでいきます。
この時季は、薬効の力が高まる草木花も多くなります。人間の身体と心が、季節にそなえることができるようにという自然のはからいを、他の季節より強く感じる季節です。


第九話「芒種」へ
日陰の紫陽花は可愛らしく葉の中にちょこんと顔を出し、日当りのよい場所では、すでに立派になっているものもあります。
梅雨の足音がだんだんと見えてまいりました。

広田千悦子

文筆家。日本の文化・歳時記研究家。日本家屋スタジオ「秋谷四季」(神奈川県)などで季節のしつらい教室を行う。ロングセラー『おうちで楽しむ にほんの行事』(技術評論社)、『鳩居堂の歳時記』(主婦の友社)ほか、著書は20冊を超える。

写真=広田行正